ポーラ完了報告レポート原案からの抜粋、2000年
安部典子
June 16th '99 ヴェネチア・ビエンナーレ見学
快晴である。白い砂の歩道では、海からの照り返しと木陰の対比が、風に揺らぎながらせめぎあっている。サン・マルコ広場からさらに離れた、喧騒とは無縁の場所である本島の先端に、ビエンナーレの会場はあった。暑い! 広い庭園内は、廃墟となった神殿のような建物を改装した、各国のパビリオンが点在し、比較的のんびりと人々がくつろいでいる。そういえば、去年ここにきたアメリカ人アーティスト、サラが、誰もいないパビリオンはまた、まるでその国が滅びたかのような、タイムスリップしたような錯覚を感じて、興奮したと言っていたっけ。今はしかし、こんなところにアートの最先端があるのかと、なんだかアイロニー的なものを感じる。一般の人にとってアートとは何なのだろうか?中心地にある歴史的産物だけがアートではない。やや複雑ではあるけど、ここにあるのは紛れも無く最先端のホットなアートの勢揃いなのだ。
全作品のうち、ほぼ8割方インスタレーションやビデオアートである。特にNY在住のイラン人、シリン・ネシャットのビデオのメッセージは心の深いところに届き、こちらのイマジネーションをかき回してくれる。他の作品も、日常をスッパリと斜めに切ったような切り口で、違う観点を表出させるような、現実とのズレを意図しているような、だからこそ自販機や地下鉄、自宅と、ライブ感を大事にしているようにも思われた。また、かつての作品に多く見られた圧倒的な存在感を示す“力技インスタレーション”よりも、そのものを通して表される気配、空気の共用など、五感を背後から刺激するような体質に移行していると感じる。霊的というのか・・・。
ハンガリー代表のインスタレーション、コンクリートを細い糸でステッチしていく作品、ベルギー代表アン・ヴェロニカ・ジャネッセンの立ちこめた白いガスのなかから浮かび上がる無言のメッセージ。USA代表、アン・ハミルトンの、壁の隙間からふり落ちる紅い粉・・・etc. もはやアートは日用品を使いながらも、その概念と存在感を通り抜け、哲学畑に咲く変幻自在の花々のようだ。
しばらく見ていくと、日本人と欧米人のアートの出所が違うことに気付かされる。つまり、日本人が欧米人のように五感を刺激するインスタレーションをやり始めると、わびさびの幽玄の世界に吸い込まれ、出口を見失いやすい。明確なコンセプトに向かうのをブラせる。でも欧米人にはそれがない。かといって割り切りすぎると今年の宮島達男氏になってしまうのか。作品に本人不在のまま。
さらに特出すべき点は、中国の作家の暴力的ともいえるパワーだ。政治的反発を背後に抱え、新しいデモクラシーの風を感度よく察知し、アイロニカルなその言葉は、現代美術界に土足で乗り込んできたかのような圧倒的存在感がある。輸入されたアートであるだろうに、中国人にしかできない表現と感じられる。政治的な枠組みがある方が、焦点が絞れるのか、それをなくしたらどうなるだろうか。我々日本人のように。そんなことはしかし、余計なお節介というものだが。“大賞”を取った蔡国強の作品は、生粘土とガラスで出来た、労働者の苦悩の姿を表現した、フィギュアによるインスタレーションであった。時間とともにひび割れていく過程も作品である。あまりにも土臭い、ひんやりと湿度のある作品だ。会期の最後の頃は、その振り上げられた腕は崩れ落ちたのだろうか?
言葉によって支配し尽くされたアートの洪水のなかで、とても個人的な日常を感じる作品を見つけた。ルーマニア代表・ダン・ベルジョブスキの、床のタイル1枚1枚、全面に描かれた、イラストのようなドローイングである。これでいいのだと、どこか力の抜け具合が心地よい。最先端のアートのオリンピックという中で、ラディカルですらある。アートよりアーティストの勝ち。そう見せておきながら、アートが勝っていた。
June 18th '99ラヴェンナのモザイク
ビザンティン時代のバジリカ式と集中式の教会は、街中に点在している。地図を頼りに足で探した。強い太陽に照らされ、古いレンガの町並みがハレーションを起こしている。ようやくサン・ヴィターレ寺院にたどり着く。1歩中に入ると真っ暗で何も見えない。段々目が慣れてきて、壮大な金地のモザイクが、きらびやかに姿を見せた。円蓋の部分に広がるモザイク画の宇宙は、とてつもなく時間を費やしたであろう人々の労働の結晶だ。しばし見とれていたが、段々何かが気になってきた。
機械的なそのモザイクを作るという行為は、ミニマルな動作の繰り返しである。しかしまったくの幾何学文様でありながら、輪郭線が微妙にゆったりと歪んでいるのだ。正円ではない、直線もない。なんとも豊かなその歪みに、あっそうだったのかと、強烈に何か、問題を解いたような感覚に襲われた。以前読んだことがあった、中村英樹氏の、「表現のあとから自己はつくられる」に書かれていた、作家のオリジナル性とはこれを指していたか、とポン!と、ひざを叩いた感があった。
抑圧された行為を通して逆に炙り出されてしまったズレや歪み。人間がかつて存在してこれを作っていたのだという、目に見える証拠。表現主義やアクションペインティングの作品よりも、人間の気配をじわりと感じる。なんだかその歪みが“セクシー”に感じるといったらいいのか。それこそが人間のオリジナリティーってことか。このおよそ1000年前に建てられた、沈黙の教会の中で、モザイク画に包まれながら、作家のオリジナル性とはなんだということを教わった。ここ3年間、自身のオリジナル性に疑問を感じ、自己懐疑を繰り返してきたが、今ようやく、今後の作品の中心的コンセプトが紡ぎ出される事になった。私にとって作品を作る行為とは、そしてアートとは何かということが。一つ答えがわかると、こんなにもシンプルになるものか。
June 20th '99 スタジオへ
トスカーナの古都ルッカの北東約8マイル、7つの渓谷という意味のバルドターボという小さな山村に、約200年前の農家の納屋を改装したアーティストレジデンシー、スタジオ・カムニッツアーがある。ディレクターはNY在住のコンセプチュアル・アーティスト、ルイス・カムニッツアー氏。このレジデンスはルイスとの徹底したディスカッションを繰り返しながら、自身のコンセプトを明確に鍛えていくという、アーティストにとってはハードな、しかしカウンセリングにも近い、かなり特徴的なプログラムである。リピーターが多いい。ベテランのアーティストさえ年に1度、感性を研ぎなおしに欠かさずやってくる。
ルイスの指導は、「自分にとってアートとは何なのか、それさえ解れば後は自由。」を繰り返す。彼の、作品への鋭い批評が、容赦なく降りかかる。私は過去2年間参加し、反発も強かったが、その効果は著しい。まさにタイミングよく、悩んでも解決つかない部分を、ルイスの胸を借りて鍛えさせてもらった。自分自身への絶対的信頼を持ち、アートの価値を開放していくこと、そして信念を持つこと。ルイスという生きたアーティストを通して、そういう姿勢を感じ取った。
私が今年スタジオ入りした段階では、まだ誰も到着していなかった。スタジオはまるで廃墟のように蜘蛛の巣だらけ、ねずみの天国になっていた。断水と停電も同時に起こっている。電話も車も電化製品の一切が到着していない。頼りは自分の足だけだ。アーティストハウスからスタジオまで15分、そこから店がある人里までさらに15分山道を下る。湧き水を汲んで飲料水にし、地元の管理人に身振り手振りで電気を治してもらい、一人で大掃除をし、なんとかスタジオの形にするまで丸4日かかった。夜更けになると狼の遠吠えがこだまする。どうも落ち着かない。まだ日本を引きずっている。特に夕暮れ時の山々の稜線が切ない。ふっと家族や友達のことを思い出したりしている。オモヘバトオクニキタモンダ。
朝になると鳥たちの歌声で目が覚める。まったく絵に描いたような山の暮らしだ。ざわざわと風が大きく木を揺する。野鳥が一斉に羽ばたき、心が乱れる。スタジオを大きく包み込んでいるプラタナスの木をそっと抱えてみた。どくどくと水脈を感じる。私の体内の血液とシンクロしているようだ。同じである、人間も木も、そして大地も。夜道の暗さは無数の蛍が照らしてくれた。孤独といえば確かにそうだが、もっと大事なことに気付き始めている。この経験すべてが作品に集約されていくことを、すでに確信していた。
June 30th '99 各国のアーティストらぞくぞくスタジオへやってくる。
よりによって前の晩は、最大級の嵐がバルドターボを襲った。また停電だ。結局10日間の一人暮らしであったが、あの孤独と嵐の恐怖と静寂は何だったのかと言わんばかりの、今度は英語の洪水である。アメリカを中心に6カ国、9人のアーティストが集まった。共通語は英語。たまにイタリア語が混ざる。半分は常連だ。日本人の私はやはり言葉のハンデがあるが、そうたいした問題ではない。私も年々常連に片足入りつつある。
制作の日々
ハードグランドを版にひいて、ニードルでひたすら線や丸を描いていく。そのかっちりとした硬質な線が、今のところ私の表現に合っている。3日かけて製版し、2日かけて刷っていく。2点を同時に進行させると、腐食時間も有効に使える。線を引く際、こだわった事は、描写をしないということ。たとえ木の年輪やその表面、剥がれた皮のチップが元になっていたとしても、私は丸や線を引き続けるだけである。自分が無になるほどの単純な行為の先に、木のチップそのもの存在になる、街や地図になる、そして自然になる。人間の体も実は、小さな宇宙として繋がっているのだ。
ルイスへ、ようやく固まった私の線を引いていくプロジェクトのコンセプトについて、その経過からゆっくり説明した。どう突っ込まれるかと覚悟したが、とても豊かである、とだけ彼は言い、随分深く納得してくれた。私は一人もくもくと制作を続ける夏となった。
あっという間の2ヶ月であった。参加アーティストらともそれぞれお別れをしたり、再会を誓い合い、お互いの健闘をたたえ合った。この3年間、私をどん底から立て直し育ててくれたこのセッションを、そしてバルドターボを、私はきっと一生忘れないだろう。皆に、ここにこられた事に何だか“縁”を感じるといったら、ある作家に、それはネガティヴな発想だ、あなたが選んできたんだ、と言い直された。英語ではfateとか言うが、“縁”ということばの微妙なニュアンスは伝わらない。仏教用語か、“縁”とは?
私はここに来られた感謝の気持ちと、様々な思い出を胸に、作品で一杯のポートフォリオを抱え、始発バスに乗り込み、朝焼けに煙るトスカーナの山を後にした。
August 14th '99 第2の舞台、NY、JFKに降り立つ
9月から生活の基盤が整い、本格的に動き始める。イタリアが自主トレーニングであったとしたら、NYはいわばスタジアムでプレーをするところであるといえる。ソーホー、チェルシーのギャラリーやPS1などで、ヴェネチア・ビエンナーレに出品していたアーティストの作品と随分遭遇した。NYのアーティストの動向が、確かにアートワールドをリードしている。ギャラリーは常に新しいアート、アーティストを探しているのだ。
若手アーティスト発掘の「Greater NY」と題されたPS1の公募には、なんと2千人の応募があったそうだが、現在、ブルックリンのマンハッタンサイド、ウイリアムズバーグとブルックリン・ブリッジのたもとに広がるエリアだけで、6万人のアーティストが住んでいる、世界最大のアーティスト・コミュニティーがある。ギャラリーに認められる前に、自分たちでオルタナイティブなギャラリースペースを作ってしまおうと、アーティスト自身で倉庫を改装プロデュースしたギャラリーのオープニングがあちこちで行われているが、どんなはずれのところでも、必ず100人単位で人が集まっている。人脈の広さには感心しきってしまう。それと、NYの好景気と治安のよさをも物語っていると言えよう。そういえばNY在住の作家友達から聞いたが、12月1日はエイズの日で、No-Artの日というちらしが、だれからともなく送られて来るそうだ。エイズで去っていった多くの作家たちへの、せめてものレクイエムということか。NYのアーティスト達は、社会問題をよく理解し、行動を起こし、特に正義感の強い性質を持っているように感じる。やはり頼もしく、社会から彼らも認知されている。
篠原有司男氏、ノビ塩谷氏らのスタジオにおじゃまし、NYの生活、アンデバンタンなど戦後の日本美術の活動、ナム・ジュン・パイクや河原温の初期の様子、また彼らの現在進行形の作品について、様々な話を聞かせて頂いた。まさに新たなアートが今ここで生まれようとしていた。
NYでルイスと再会
ルイス・カムニッツアーとも、NYで引き続きディスカッションを続けた。イタリアと違って、やはり表情がどこか厳しい。NY州立大の教授を退官した彼は、ソーホーにあるドローイングセンターのキュレーターを務めている。又、「ホイットニー・ビエンナーレ・今日のアメリカの100人」に選出され、ホイットニー美術館で作品が展示されていた。恩師の作品の実物を見るのは初めてであり、こころなしか誇らしい。華やかで刺激的な作品が多い中、彼のインスタレーションは異質なほど政治的で、ホロコーストを彷彿させるプリズンを作り、アーティストの姿勢を問うメッセージに満ちていた。日本人作家は一人、柳幸典氏の「スリー・フラッグズ」が選出されている。
ルイスとは月1回のペースで作品をチェックしあった。NYから発信される私の作品のわずかな変化を見逃さず、インスタレーションのアイデア等、新しい可能性とその育て方を時には提案してくる。彼は職業柄1000点を超えるドローイングを常にチェックしている。その意見は貴重だ。しかし選択は、私自身の根本に関わる問題であり、私の意見は常に率直に伝えるように心掛けた。しかし説得力がない。もっと作品にいや、自分に集中せねば。応用問題を出されているみたいで、脳みそがきりきり言う。何か、今まで私という人間が、古いアカデミックな絵画の価値観に縛られてきたということが、炙り出されてきた感じだ。枠をはずし、もっと自由になりたい。
ワッツギャラリーとの出会い
NYでもう一人の知り合いの作家、リリアナ・ポーター氏から薦められ、123WATTS GALLERYに作品を持っていった。トライベッカの北、ホーランドトンネル付近のカナルストリートを、すこしワッツストリートに入ったところに位置するギャラリーである。ディレクターは、かつてメトロポリタン美術館や、レオ・キャステリギャラリーで活躍してきた、若きフランス人女性、ジョゼ・ビエンベヌウ。会場では、マイクロウエイヴ・スロウアート」と題した展示がされていた。ドローイングからインスタレーションへと展開された、線の表現のネオ・ミニマリズムと言ったらいいか。特にブルックリン在住のウルグアイ人、マルコ・マッジの線は、人間業ではないほど、オリジナルな地図の世界を、繊細な線で描ききっている。その他、イギリス人のシモン・フロスト、アイスランド人のランガ・ロバーツドッテアーのインスタレーション、モロッコ出身のジャコブ・エル・ハナニなど、ミニマルな線を描く作家がこれほどいたことに、驚きを隠せなかった。しかしやはり線の質がまったく違う。私も含め。出所は同じでもこれほどヴァリエーションがあるとは驚きであり、ジョゼの企画の意図が、かなり建設的だと理解できる。
ジョゼは私の作品をだいぶ気に入ってくれたらしく、1点購入してくれた。それから9ヶ月間、ワッツギャラリーと関わっていく事になった。
コラボレーションの妙 -線の作家たち-
ワッツギャラリーで扱われていた作家達を、別のギャラリーでも時々見かけた。ソーホーのピーター・ブルーム・ギャラリーではシモン・フロストを、チェルシーのニコール・クラグズバーン・ギャラリーでは、ジャコブ・エル・ハナニを。それらは、表面にぽつぽつ穴をあけた、プリミティヴなテラコッタの素焼きのオブジェとのコラボレーションであったり、または、時が止まってしまったような逆光の中、セピア色の教室の窓に映る、木の影の、うつろいのみがゆっくりと変化しているビデオ・インスタレーションとのコラボレーションであったりした。それぞれの作品は、記憶の底に残るほど深い思想にあふれ、感性をきりきりと刺激させられる。NYはいうならば交差点のような場所である。様々な人と出会い、その情報やエネルギーの感度を確かめ合う。ブルックリン美術館で行われていた、イギリスの若手作家を紹介していた話題の展覧会、「センセーション・サッチー・コレクション」(これは市長の政治がらみの発言との話もあり、関係ないところでデモンストレーションまで引き起こす騒ぎとなったが。)のシモン・カレリーもシンプルな線の作家だ。また、アーモリー・ショウにて、イギリスの、ステファン・フリードマン・ギャラリーのブースに展示されていた、サンパウロ・ビエンナーレ、ブラジル代表リヴァーン・ノイエンシュワンダーも同じ質を持った作家であり、インスタレーションにまでたどり着いた、かなりの世界観の完成度を見せている。皆、ほぼ同世代。さらに大御所では、アグネス・マーティンと、挙げればきりがない。ある作家に聞いたが、以前やっていた、A.マーティンと、杉本博司氏のコラボレーションは忘れられない、といっていた。是非、私も見たかった。こちらに来て、そういったコラボレーションの絶妙なセレクションを多々体験する。これはまさに、キュレーターのセンスの冴え渡った極地であろう。日本のギャラリーの2人展とは、一線を画す。私もできることならコラボレートしてみたい作家が幾人かいるが、それはまだ内緒だ、暖めておこう。
あるプリントメーカー達との話し合いで、彼いわく「作家は、常に何か新しい作品を作っていかなければならない。誰かがもうやっていることなど、2番煎じで意味がない。コンセプトをいちいち読まねば解らないのは、アートの力がないからだ。」と言う意見と、作家サイドからは、「それは資本主義的考え方だ。売るにはよい。しかしたとえ出来上がった作品が同じでも、コンセプトが違えばそれらはまったくコネクトしていない。作家のモットーとしては、自身の考えを常にブラさずに保ちつづけることが大事。」。ギャラリストは、両方取りの意見であった。私はまったくもって作家サイドに傾向している。ただ最近、やはりアートの力というものを、もっと意識するようになった。
アメリカのブックバインディング事情
ソーホーのはずれ、ハドソンリバー沿いあたりにある版画工房で、週3,4日刷り、アパートの仕事場でドローイングをしていたが、縁あってチェルシーにある、センター・フォー・ブック・アーツというところで、ブックバインディングのコースを取ることにした。インストラクター、クミ・コーフ氏が、建築家であったことも、ブックバインディングに興味を持ったきっかけである。本のストラクチュアを使って物を考える。紙を一回折るだけで立ち上がり、作品は3次元へと展開する。クミ氏いわく、つなぎ目や金具の使い方等、ディティールの可能性からものが立ち上がっていくところが建築と同じである、そして規制がないことが魅力と語っている。私はこのブックバインディングの分野に、この2次元とも3次元ともいえない形態に、様々な可能性を感じている。版画から始まった私のコンセプトの表現を発展させていくには、最適な表現形態である。そう、なにか確信めいたものを直感していたのだ。
日本美術の傑作
版画工房で刷っていると、NYで行われている様々な展覧会情報が作家たちから入ってくる。日本美術の展覧会の時は、私に質問が飛んでくる。まだ見ていないと、急かされたりする。そのなかでも圧巻だったのは、メトロポリタン美術館で行われた、「マリー・バーク・コレクション -日本美術の傑作-」だ。各新聞にもエレガンス!と唄われ、我々を魅了した。縄文の壺からはじまり、阿弥陀如来像、平安絵巻図、狩野派や雪舟らの襖絵や掛け軸、戦絵巻図の屏風、美人画、茶の湯、慎ましくきらびやかな室町文化の調度品の数々。こんなにも独特なスモーキー調の色彩感覚や、柄対柄の組み合わせのセンス、ひらがなのしだれのようなその線描、自然を生きたまま取り入れたかのような造形、素材の生かし方。どこかストイックで豊かなその洗練された高度な文化は、まさに驚きである。こんなチョイス見たことない。確かにヴィジュアル的に、セレクトはアメリカ人好みではあったが、外国人として客観的に見ても、私はどうやら日本文化のファンになってしまったようだ。
もう一つ、ブルックリン美術館で開催された、「広重-江戸名所百八景-」全シリーズである。紙の変色を防ぐため、25年に一度しか公開されず、1日5時間の開館と決められ、厳重に管理されていた。春夏秋冬と季節に分けられ、それぞれの町民の暮らしがてにとるようだ。自由で極端な構図と、限られた色彩での、ぶつかり合う大胆さとその彩度の鮮やかさ。フレームの中をそれは自由奔放に描かれ、かつ、ことごとく緻密に刷られていた。先人から学ぶことはあまりにも大きい。我々は何を失ってきたのか、何が残っているのか。私は何ができるのか。
最後に、イサム・ノグチ
マンハッタンからクイーンズへ、Nラインでブロードウェイ下車。イーストリバー沿いのソクラテス彫刻公園を目指してひたすら歩くと、左手にレンガの建物、イサムノグチ美術館がある。学生ならわずか2ドルで写真撮影も許可されている。彼の作品をまとまって見るのは初めてである。今までは彼のことを知らないがゆえに誤解していた。受けを狙って日本文化を作品に取り入れているのではないか、などと。しかし彼の作品とポートレート、ビデオのメッセージを見ていきながら、なんともひたむきに自身のアイデンティティと向き合い、石と対峙し、ノミのあとを辿りながら、どうやって崇高なところに辿っていったのかを感じることができた。又、彼が晩年に取り組んだ公園の計画は、いくつか志半ばで終わってしまったものもある。80歳を過ぎた老体にムチを打つように、最後の力を燃やして取り組んだ子供たちへのプレゼントは、いくつか実現されなかった。滑り台で遊ぶ子供たちを、うれしそうに見つめるそのしわくちゃな、やせこけた笑顔に、思わず胸が詰まった。誰か、私の後を継いでくださいと、ビデオは締めくくられていた。人口庭園には彫刻はいらないといい、自然石のみを配置し、環境から芸術のあるべく姿を考えていた、彼の達観したその姿勢。芸術に一生を捧げた理屈ではないその姿に、イサム・ノグチの深い悲しみと、彫刻家としての厳しさが伝わってきた。彼が今もここで見守っているようで、その存在が大樹のようで、しばらくその場をはなれることができなかった。ここ、ニューヨークで。
Bye_Bye、NY
とうとうNY総仕上げ的な作品のアイデアが出てきた。本当に、ふっと沸いたアイデアであったが、パールペイントで見つけたスケッチブックを、線を引いていくことに変わって、カッティングしていくというプロジェクトに取り掛かったのだ。仕上がったのは、帰国4日前である。それをワッツギャラリーやルイスに持って行った。作品をすぐ持っていけるロケーションが、NYくらしの最大のメリットだ。おかげでなんとか帰国後も繋がりを持つことが出来そうである。
夢中で過ごした私のNY生活も、こうやって終わりを迎えた。いつかは来ると思ってはいたが、本当に終わりは来るものだ。いつも「はじめまして」から始まる出会いの連続だった日々も、いつしか「また会いましょう、さようなら。」に変わった。なぜか、イタリアの日々が無性に懐かしい。
帰国前日、何をしようかと思い、とりあえずエンパイア・ステート・ビルディングに登った。様々なことが、今日もこの街のどこかで起こっている。人々がひしめき、ぶつかり合いながら明日を夢見ている。遠くシルエットが2つ並ぶ、ワールド・トレード・センターの下のほう、我らが版画工房をチェックし、アパートのあるクイーンズの光の塊を見つめながら、最初の頃の状況を懐かしく思い出す。この地で知り合い、友人となった一人一人の顔を浮かべ、そしてこの357日間すべてがギフトであったことの奇蹟に、ただひたすら、感謝の言葉を、心の中で繰り返した。そういえば、今までこんなふうに毎日を感謝しながら生きてきたことが、果たしてあっただろうか???それだけでも、私の人生のなかで、非常に大事な出来事であった。
夜空には星が浮かび、ビルとの間をヘリコプターがUFOのように自在に旋回している。ある人が言っていた、NYは決して眠らないと。ここ、エンパイア・ステート・ビルディングの上で風を受け、マンハッタンの輝く夜景を見渡しながら、私はその言葉を、ぼんやりと思い出していた。